子どものころの果実

「痛くないの?」
「ハイ。確かに色んなとこに傷出来てますけど……そんなには。だから大丈夫です」
 いかにも平気そうな、けろっとした表情で即答されてしまう。けれど、とてもそうは思えない。は不服そうに腰へと手をやった。赤い血が滲む擦過傷、皮下で内出血を起こして黒く淀んだ痣――今のエレン・イェーガーには視覚的に痛々しさを訴えてくる数々が盛りだくさんだ。どれだけ本人に否定されようと、の目に映る彼は、どう楽観的に判断しても怪我人そのものである。そんな青痣だらけの顔面で大丈夫だと言い張られても引き下がれるわけがない。それなのに、目のまえに座すエレンはこの期に及んで「大丈夫です」の一点張りを続けている。は呆れ半分心配半分で肩をすくめた。この少年は筋金入りの頑固者だ。
「そうは言ってもね……エレン、きみ、ボロボロだよ。鏡がないから見せてあげられないのが残念なくらい」
 エレンのシャツに赤黒い染みがいびつな丸を作っているのを見てしまえば、ため息のひとつも吐きたくなるというもの。はエレンのすぐとなりに腰を下ろした。肌触りのいい素材で作られたソファが軽く軋む。いつまでも強情でいる気なら、こちらもそれなりの方法を取るだけだ。強硬手段に移行する。
「とりあえず、消毒だけでもしておこうか」
「……えーと」
「これは命令と受けとってもらってかまわないから」
 は可能な限りにこやかな表情で告げてやった。最終通告だ、と言外に匂わせる。
「…………じゃあ、お願いします」
 重い沈黙に耐え兼ねて、エレンはあっさりと折れた。彼はぎこちなく口角を上げ、乾き切った笑みを顔に貼り付けている上官――に向き直る。彼女の怒りを買えば最後、いったいどんな仕打ちが自分を待ち受けているのか……身に染みて理解しているのだ。
「良かった。エレン、きみには素直がいちばん似合う」
 は打って変わってほんものの微笑みを浮かべると、上機嫌なままエレンの肩を叩いた。
 エレンに傷をお見舞いした張本人、リヴァイはとっくの昔に退室してしまっている。つい先ほどまではエルヴィンやミケ、それからハンジの三人も在室していたが、今はもうとエレンのふたりだけだ。

 巨人化が可能な人類――エレンの存在意義を問う兵法会議のあと。ハンジたちと共に会議に出席していた調査兵のは、リヴァイみずからによる『演出』で満身創痍に陥ったエレンの手当てをしようとこの部屋までやって来た。エレンが訓練兵としての三年を過ごしたあいだ、は幾度か指導教官として任務に当たっており、エレンのことを知らない仲ではなかった。むしろ関係性は浅くないと言っていい。にとっての訓練兵たちは弟や妹に近しい存在だ。訓練中は鬼のほうがまだ優しいと思えるほど厳格に指導するが、それ以外では懐の深い姉的な態度で訓練兵に接してきた。が指導教官に選出されているのにはそんな面倒見の良さも一因している。

 会議に掛けられる者の控室として用いられる審議所の一室に、午後の陽光が溢れんばかりに射し込む。は小脇に抱えていた木材の救急箱から消毒液やピンセットなどをてきぱきと取り出していく。熾烈を極める鍛錬中、怪我を負った訓練兵に処置を施すのもの仕事のひとつだ。つんと鼻につくアルコールのにおい。丸めた脱脂綿に消毒液を染み込ませ、ピンセットでつまむ。
「じゃあ、すこーし染みるよ」
 知らずのうちにそんな口調を使った自分自身を、けんかに興じた幼子を諌める母親のようだと――は思った。エレンが頷いたのを認めてから、特に流血の激しい左頬に脱脂綿を当てる。
「いっ……」途端、エレンが目を顰めた。殊勝にも鈍い痛みをこらえているのだろう。片方の瞳を閉じ、聞こえるか聞こえないかの小さな呻き声をもらす。
「ほら、やっぱり痛いんだ」
 軽く叩くように脱脂綿を動かしながら、は呆れたとばかりにぼやく。綿の無機質な白は一瞬のうちに有機的な赤に染め変えられてしまった。
「やせ我慢はよくないって散々言ってるでしょうに」
 身体的な距離が近いのを意識してか、エレンはわざとあさっての方向を見つめている。そんな微笑ましい反応をまえにして、は心の隅がほんのりとあたたまるのを感じた。焦げ茶色の髪、かすかな碧を帯びて輝く大きな瞳。今、の正面に佇むエレンはもうただの子どもではなかった。もちろん背丈はいつの間にかを大幅に追い越してしまったし、内面だって――。
 彼が先ほど審議所で吐露したありのままの心情を思い起こしながら、は思考に耽る。エレンは年齢に見合った直情的な面もあるが、その身の内に確固たる信念を持っている。使いかた次第で天国にも地獄にも変化する力をはらんでいる。三年前、初めて顔を合わせたときには、彼がここまでの想いを胸に秘めて生きているとは想像も付かなかった。自分よりいくつも若い彼をまえにして、うっすらと羨望すら抱いたものだ。
「……ミカサとアルミンなんだけどね」
 はふと思い出したようにふたりの名前をつむぐ。エレンはきょとんと首を傾げた。そのしぐさがまるで中型犬のように見えて、は人知れず笑いを押し留めた。
「え? あいつらがどうかしたんですか」
「どうかしたって言うか、あのふたりは早くきみに会いたいだろうなって思って。審議中、きみをいちばん真摯な瞳で見てたのはミカサとアルミンだったよ。当然だよね。あの審議にはきみの命が掛かってた。ふふ、兵長が中央に躍り出てきみをいろんな方法で苛め抜いてたときのミカサったら、今にも食ってかかりそうで、こっちがハラハラさせられた」
「……そうですか」
 エレンは実に複雑な表情をした。ミカサのようすが容易に想像できたのだろう。ミカサがエレンに並々ならぬ執着心を抱いているのはも理解している。エレン・ミカサ・アルミンの三人には、血の繋がりよりもっと深い、芯のある絆が通っていることも、そばで見て来たのだから知っている。
 簡単な消毒を終え、患部を清潔な布で拭う。これだけで大丈夫だろう。あんな荒んだ態度を取ってはいたが、リヴァイは彼なりに手加減をしたようだった。
「エレン、もう一度こっち向いてみて」
 が促すと、機械じかけの人形染みた動きでエレンが顔を動かす。ぎくしゃくという音がしそうだ。は可能な限り優しくエレンの頬に触れ、傷の状態を仔細に確認した。指先に肌の温度がじんと伝わってくる。痣のぶぶんだけが微妙に熱を持っていた。
「腫れてる。血もけっこう出てたからね……あ、でも抜けた歯は生えてたんだっけ」
「自分じゃ見れないので分からないんですけど、そうみたいです」
「そう」
 はエレンの頬から離した指先を、そのまま彼の頭へと持っていった。拗ねた子猫でも宥めるような手付きで髪を撫ぜる。さらりと、渇いた感触が指先をくすぐった。
「痛かったでしょう。よく耐えてくれたよ」
 のくちびるが三日月のカーブを描く。慈しみに満ちた笑みを受け、エレンは数秒間固まってしまった。
「あのね、エレン」
 使い終えた用具を応急箱に戻す手を止めぬまま、がふたたび口を開く。
「何でしょうか」
「覚えてるかな? 初めて会ったときって立体機動訓練の初回だったでしょう。あのとき、きみ、豪快に地面と衝突してたよね」
「ちょ、そんな前のこと今さら持ち出さないでくださいよ!」
 不意に過去の失態を蒸し返され、エレンの頬に羞恥の色が差した。は笑みをほころばせ、あはは、と楽しげな声を上げる。日光がの目許に睫毛の影を作った。
「ごめん、なんだか懐かしくなったんだ。あのときと比べて、今のエレンはすごく逞しくなったって実感してる。きみが何度もひっくり返るのを近くで見ていた教官の、忌憚のない意見として聞いて」
「……」
「そしてこれからのきみは私と同じ調査兵団に属することになるんだ。よろしくね、エレン」
 は伏せていた顔を上げ、真正面からエレンと視線を合わせた。揺るぎない意志が満ちた彼の双眸は、見ているの内奥がどきりと弾むほどだった。
「ハイ」
 よどみない返答に、はにっこりと笑む。
「うん、よろしい」
 よろこびとさみしさが半分ずつない交ぜになったような表情を浮かべ、はエレンの頭をくしゃりとかき混ぜた。あらわになった象牙色の肌にそっとくちびるを近付けながら――ゆっくりと瞳を閉じる。
 エレンの額から、もうには持ち得ない果実の香りが漂う。
 うらやましくて、たまらなくなった。

(13/04/21)