まぼろし本棚

 いったい何がきっかけとなって――ましてやどう転ぶかなんて、ちっとも分からないものだ。は二冊の本をそっと胸に抱え直すと、訓練兵たちがふだん寝泊まりしている寮の廊下を小走りに駆けていった。足取りはかすかな期待に浮ついている。すれ違った友人が声をかけてくるが、いまのには友人との談話以上に優先したいものごとがある。会話もそぞろに、ひたすらに目的地を目指す。気持ちばかりが先へ先へと進みたがる。

 が訓練兵団に入団したのは三年前、彼女が十四歳を迎えてすぐのことだった。訓練兵団は志願制であり、十二歳以上の健康な者ならば誰でも入団することが可能だ。つい数年前まではそんな人間は多いとは言い難かったが、ウォール・マリア陥落以降に高まった兵力増強の機運を受け、入団希望者は増加の一途を辿っていた。
 もまた、そのひとりだった。一度は生産者としての道を選びかけたが、世論の影響により、十四歳を迎えたあとで訓練兵団へと入団した。第104期訓練兵。その世界で出会ったひとりが、アルミン・アルレルトであり――が、いとけない想いを向ける相手だった。

 酸素が切れてしまいそうになる。
 アルミンは、寮の出入り口横にすっくりと生えている大木のそばに佇んでいた。ささやかな夜風を受けて、髪がさらさらと揺れていた。彼の金色を間違えるわけがない。はすぐさま彼に駆け寄り、息を切らしたまま、借りていた本をすっと差し出した。
「アルミン、これ、ありがとう」
「ううん。おもしろかった?」
 アルミンがふっとほほえむ。
「うん。とっても」
 も、ほほえみ返した。



「本、好きなの?」
 そう、きっかけはそんなひとことだったように思う。
 訓練兵にも数少ない休日が設けられており、そんなある日の木陰で起こった出来事だった。はどこか静かな場所で読みかけの物語を楽しむべく、寮付近を散策していた。ちょうど具合のいいケヤキの大木を見付けて歩み寄ると、そこには太い幹に寄りかかって本に没頭している先客のすがたがあった。は、そのおとこのこが誰であるのか、すぐには分からなかった。2メートルほどまで近づいてから、ようやく彼が同期のアルミンであると認識した。何かと猪突猛進な言動で目立つエレン・イェーガーや、抜群の運動神経が周囲の羨望を集めるミカサ・アッカーマンといつもいっしょにいる少年で、長めに垂れた金髪と透き通った蒼い瞳がもともとの繊細な印象をより強めている、そんな人物だ。
 少なくとも、その時点では――は、はつこいに落ちるつもりはなかった。
 ただの興味本位で、幹の根元に腰かけているアルミンへと歩を進めた。ざざ、とケヤキの梢が大きく揺れ動き、太陽のにおいに満ちた風が周囲を通り抜けていった。アルミンのうつくしい金髪がふわりと揺らぎ、それが――なにやら幻影じみてきれいだと、は思った。
 の足音に気付いたのか、アルミンがゆっくりと振り向く。まあるい飴のような瞳がふたつ、きょとんと見開かれている。予想外の人物が予想外の場所を訪れたことで驚いたのだろう。アルミンの手許には、ベルベットの表紙が古めかしくつやめく本があった。
 そしては例のせりふに至る。
「本、好きなの?」



 とアルミンが『読書』という共通の趣味を介して友人関係を深めていくのは、きっとあまりにも当然の流れだっただろう。の周囲にも、そしてアルミンにも、本を愛する人物は少なかった。アルミンの読書好きには祖父の存在が大きな影響を及ぼしたらしい。そしても似たようなものだった。もともと友人を作るのが不得手だったにとって、幼少期にできる簡単な遊びと言えば、祖父母が地下室に遺した大量の書籍が中心だった。
 訓練兵としての日々は決して楽ではない。もともと農耕を中心に生計を立てる家に生まれついたこともあり、は体力には恵まれていた。それでも訓練は過酷を極め、不可抗力で滲む涙で何度も瞳を熱くさせたが、が根を上げることなく訓練期間満了を迎えることができたのは、ひとえに友人たちの存在によるところが大きい。第104期の訓練兵たちは、どちらかと言えばおとなしい気質のに対しても実に気さくに接してくれた。この訓練施設でが得たのは兵士としての能力だけではない。むしろ大勢の友人に恵まれた幸福こそが僥倖だった。そして、趣味を共有できるアルミンへと向けるほのかな思慕も、生きる気力を力強く後押ししていた。
 アルミンは実に心優しい少年で、深遠な知性も備えていた。彼のそばにいるとき、彼と言葉を交わすとき、は自分の内奥がやわらかくなるような安らぎを感じる。本を読んだあと交わす会話のなかでぽつぽつと見つかるとアルミンの感受性の差は、どこか憎らしくもあり……それでいていとおしいという気持ちをに抱かせた。アルミンが紡ぐ所感の内側から彼のこころがちらりと垣間見えるようで、楽しかった。
「……外の世界?」
 あるとき、アルミンが――現在ではもう禁書として取り扱われている本の内容をに語り聞かせてくれたことがあった。その本には壁外世界に満ちる万物がいったいどんなようすをしているのかが描かれ、の好奇心を大いにくすぐった。炎の水、氷の大地、砂の平原……彼のくちびるから飛び出す言葉の数々がの想像力を掻き立て、高揚させた。これまでのにとって、この世界をぐるりと囲む壁は彼女たちの守護者のような存在であったというのに、アルミンが語る壁外世界のうつくしさを脳裏に描いていると、壁がまるで鳥籠の格子のように思えてきてしまうのだから不思議だった。
「あの本はね、壁の外にどんな光景が広がっているのかを僕に教えてくれたんだ」
「アルミンの話を聞いていたら、なんだか壁の外には自由なものがたくさんあるんだなって思っちゃう」
「きっとその通りなんだ。きっと」
 アルミンは力強く語った。そしては、自分の気持ちがより甘くなっていくのを感じていた。
 また、アルミンはその繊細さからは思いもつかないほど堅い意志まで抱えていた。訓練兵団卒業の時期が近づき、所属をどこにするのかという話題で周囲が持ち切りになったとき、アルミンはなんと調査兵団を選ぶ、とに語った。は驚愕した。もちろん駐屯兵団を選択するものだと思い込んでいたのだ。けれど、アルミンは現状を維持していく世界を良しと思えない、とまっすぐな瞳で告げた。そして、はそんな彼のあとについて行きたいと――思ってしまった。調査兵団を選ぶということが人生をどう左右するか、それが分からないではない。何を隠そう、はウォール・マリア陥落時に父親を失っている。そしてトロスト区襲撃の苦過ぎる経験が、記憶に絶望の鮮烈さを刻み込んだ。けれど、それでもはアルミンと共にありたいと思ったのだ。彼への思慕から来る幼さも大きかっただろうが、けれどは自分の意志で選択した。自分の未来を。
「私、調査兵団に入る」
 その決意は驚くほどすんなりとくちびるから生まれた。アルミンは笑うことも止めることもなく、の選択を尊んでくれた。
 後悔がないのかと問われれば、きっと嘘になってしまう。巨人がどれほど理不尽な捕食者であるのか、身をもって知ってしまったいま、安穏と暮らしていた過去のような無知さは保てない。たった一瞬のうちに友人を山ほど失った。いま、こうして生きている、たったそれだけのことがとんでもない奇跡のように思えて――実際、奇跡だったのだ。
 きっと、調査兵団へと進まなければ、現実を預かり知らぬまま大人へと成長し、恐怖を味わわぬまま微温湯の幸福を得て……きっと、それはそれでひとつの幸福なのだろう。壁内で自分のいのちと職務を全うすることだって、確かに素晴らしい人生なのだ。それを否定する権利など誰も持たない。
 ただ、人生の選択をしたのはまぎれもない自分自身なのだから、せめて毎日を大切に生きていけたらと、は思ってやまないのだ。

 もう、アルミンとのあいだに本の貸し借りはない。お互いが所有している本はすべて読んでしまった。けれど、ふたりの関係が絶えてしまった訳ではない。次の壁外遠征――たち第104期生にとってはこれが初となる――では、ふたりは同じ班に属する運びになった。
 実のところ、壁外へ足を踏み出す日を、は楽しみに思ってしまっている節もある。そんな軽薄さを周囲に漏らせばただの死にたがりだと一蹴されてしまうのがオチだろうし、自身そう考えてもいる。壁外に蔓延る「彼ら」は慈悲のひとしずくも持たずにの目前に現れるだろう。油断をしたが最後、あっという間に生命を取りこぼす羽目になる。

 けれど、それでも、は思ってしまうのだ。
 壁の丸い枠に縁取られた空ではなく、どこまでも果てなく広がる青藍に、彼の金髪はきっとこれ以上なく映えるのではないかと。まるでひとつのまぼろしのように、いつまでも、思ってしまうのだ。

(13/04/21)